2:「なだいなださんを偲ぶ会」のご報告 珠 07/13 01:37 「なだいなだのサロン」の「ご意見拝聴」掲示板に書きました。 「ご意見拝聴」掲示板は、間もなく消えますので、しばらくの間重なりますが、こちらに同文を投稿しておきます。 ――――――――― 「なだいなださんを偲ぶ会」2013年 7月11日(木)1時半〜 自由学園明日館講堂にて、ほぼ200人のご出席でした。 会場にはいると、正面ステージには、昨年、「つむじ先生の処方箋200回記念講演会」で、 この会場でお話された時の、ピンクのシャツを召されて、マイクを持ったにこやかな遺影があります。 その写真を囲む白い紫陽花、やわらかな緑と白い花々の中に、 なださんがよくお召しになっていたピンクやオレンジの花も混じっていて、やさしい穏やかな雰囲気でした。 1時からは、6月1日に最後の講演となった、日仏医学会の講演の映像とお声が会場に流れていました。 『広告批評』元編集長の天野祐吉氏が、なださんの思想を「賢い国」等々、しっかりとお話しされ、 その後は、医学界でのなださんの姿を、日仏医学会名誉会長・杏林大学名誉教授の武正建一氏、 慶應義塾大学医学部 精神神経科学教室教授の三村將氏、 そして全日本断酒連盟事務局長の大槻元氏が、40年間なださんとお付き合いのあった方からのお手紙を読まれ、 アルコール依存症の病院を日本初の開放病棟にされ、治療のために患者さん達と海岸を一緒に歩かれたなださんの姿を。 その後、こころの相談室「リカバリー」代表で、なださんとの共著のある吉岡隆氏、 そして筑摩書房『展望』元編集長・径書房の原田奈翁雄と、お話は出版界に移り、 『婦人之友』の「つむじ先生の処方箋」1996年1月号から2013年7月号まで211回の挿絵を描いた画家、 成瀬政博氏が、なださんの原稿を読むたびに、こう考えるのか!と思いつつ四苦八苦して描いたお話。 ベ兵連時代に、反戦の脱走米兵をなださんが匿い、娘さんから「なぜパパは何もしないの?」と迫られつつ、 その顛末を『影の部分』という本に20年後に描くまで、なださんが沈黙を守ったお話を、作家評論家の小中陽太郎氏。 「老人党」を新聞に紹介した東京新聞記者の立尾良二氏が、その存在意義を語られました。 老人党リアルグループ「護憲+」世話人の笹井明子氏が、グループで開催した講演会での なださんの平和と憲法についてのお話を紹介。 北鎌倉の景観を後世に伝える基金理事長の出口克浩氏は、 ご一緒に仲間と山歩きをするという実際的な運動を提案実行されたお話。 北杜夫氏夫人齋藤喜美子氏は、医局で2年先輩の北さんが、なださんを「弟子にしてやる」と、とても仲が良かったお話を。 そして最後は作家の加賀乙彦氏が、しみじみと文学界でのこと、そして社会活動を忍んでお話されました。 寄せられたファックス・電報では、「こども電話相談室」での子供の難問に丁寧に答えられるなださんのご様子や、 秋田老人党のこと、「友の会」の講演会、なださんのご著書で学生・医局時代のFさんからの思い出など紹介。 そして、日仏医学会の最後の講演の後半「『そう極端なことはやりなさんな、常識的にやりなさい。 常識があればみんな平和を求めます』。これは説得力のある言葉だと思う。 この話を聞いて『なるほど、常識という言葉があったんだなぁ』という若い人がいたら、ぜひ広めて下さい。」 というなださんの「常識哲学」を若い世代に託す言葉で、お話は締めくくられていました。 フランスから長女の由希様が「父は女性に恵まれていました」とルネ夫人や娘さんたちや、 周りの方々との愛情深いメッセージを寄せられ、 三女の千夏様が「自由な生き方を認めてくれた」父親としてのなださんの姿を語られました。 そして、ご家族のご友人だったピアニスト永富和子さんのモーツアルトのピアノソナタが流れる中、 献花で皆さん、なださんへの思いを込めてお別れをなさいました。 一周忌には、有志で「なだいなだの学校同窓会」を開こうというお話も出ています。 「偲ぶ会」においでになれなかった方々も、近くなりましたら「老人党お知らせ掲示板」をご覧ください。 |