打てば響く(『なだいなだのサロン』コラム) 転載

41:打てば響く 2012年10月2日分 転載
ビートル 10/02 22:34
 なだいなだのサロン『打てば響く』2012年10月2日の記事を転載します。

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10月2日 感想というより決意


 老人党の掲示板を見ていると、老人党が曲がり角に来ていることを感じる。仲間の一人から、「これでいいのか」と活を入れられた。ぼくも、これではいけないことを十分に知っていた。だが、怠けていた。ぼくがメルマガに毎回登場するようでなければいけないのだ。それが一番の解決法。しかし、それには時間的にも精神的にも大きな負担増が強いられる。それで躊躇っていた。だが、何をためらう。今は、日本にとっても最大の危機。ぼくの人生も残り少ない。今、頑張らなくてどうする。
 ぼくは、腹をくくった。

 常連化した一部の人たちの、老人の一番悪いところが出た、独りよがりの議論などに、老人党を代表させていてはいけない。これではマンネリもいいところだ。

 話は飛ぶが、ぼくは現在「常識哲学」についての本を執筆中だ。スコットランドで起きた「コモンセンス」を社会の本にしようと考える哲学だ。18世紀に生まれ、経済学者として後世に名を残すアダム・スミスもこの運動に属した。
 この哲学運動は、アメリカ独立とフランス革命を置き土産にして、一旦は消える。トーマス・ペイン(バラク・オバマが大統領就任演説で引用した)のベストセラー「コモンセンス」の中の、「アメリカ独立は今や常識(コモンセンス)です」の一言がなかったら、アメリカの独立があったかどうかわからない。フランス革命を弁護した、200万部のベストセラー「ヒューマンライツ(人間の基本的諸権利)」は人権を常識として定着させた。かれはアメリカ独立の直後に奴隷を解放する州憲法の起草者になっている。
 この思想が、欧米では消えていくのに反して、明治以降の日本に、常識という訳語を得て生まれ変わり、定着した。日本にもともとあった論語の「中庸」の思想とぴったりだったからだ。常識は社会の基本原理となったという具合だ。

 ぼくは、老人党は常識の党であらねばならぬと考える。しかし、同時に常識は進化することも忘れてはならない。「今の非常識」がやがて「未来の常識」となることもある。未来を先取りする非常識は大いにあっていい。それが話題を提供して議論が繰り返されることが、老人党の掲示板のあり方だ。自民党の総裁に安倍がいいか、石破がいいか、石原がいいか、などという議論は三文の価値もない。だれの演説を聞いても最低で、日本の政治家の思想的な貧困さを競っているだけではなかったか。それにのせられていては、日本のマスコミの宣伝にのせられて不毛な議論をしているだけのことになる。

 日本の防衛大臣が、アメリカの使いばしりになっているのは一目瞭然だ。日本から大臣の給料を出すのは無駄。初めから説得などできないのに、沖縄に説得に赴くのは、旅費の無駄。公費を使う価値がない。これ常識。戦後大臣を「公僕」と呼ぶことが流行った。今は「アメ僕」。アメリカの強引な政策に、無理に協力するために税金を使って右往左往しているだけ。
 これが国民の常識。しかし日本のテレビはその常識をインタービューで声として出させない。

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