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 【25482】Re:一般とは?〜悪の起源は社... 沈黙の朱夏 2014-9-5 8:22:47
 【25653】Re:一般とは?〜社会における... 沈黙の朱夏 2014-9-25 9:40:40
 【25654】Re:一般とは?〜社会における... 沈黙の朱夏 2014-9-25 10:00:51

22 【25482】Re:一般とは?〜悪の起源は社会の誕生である
沈黙の朱夏    2014-9-5 8:22:47  [返信]

    追記を重ねておきましょう。

    【悪の起源は社会だ】、という話。

    ルソー→中江兆民(TN君)→「TN君の伝記」という繋がり、

    および、お題的な《人間社会観》とから、

    ルソー(↓)を振り返って観ることは当然でしょう。
    http://ja.m.wikipedia.org/wiki/
    %E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%82%B8%E3%83%A3
    %E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%BC
    (wikipedia、ジャン・ジャック=ルソー)

    その文明観はこうです(↓)。

    >> 東浩紀は、ルソーの一般意志に関する研究書のなかで、

    >> 「社会の誕生を悪の起源とみなす。人間と人間の触れあいを否定的に評価する。

    >> これは社会思想家としては稀有な立場である。ルソーは、多くの哲学者と異なり、人間の社交性に重要な価値を認めなかった」

    >> と特筆し、

    >> 思想史上、極めて特異なルソーの文明観に着目している。

    >> ルソーが、「人間が一人でできる仕事(中略)に専念しているかぎり、人間の本性によって可能なかぎり自由で、健康で、善良で、幸福に生き、(中略)

    >> しかし、一人の人間がほかの人間の助けを必要とし、たった一人のために二人分の蓄えをもつことが有益だと気がつくとすぐに、

    >> 平等は消え去り、私有が導入され、労働が必要となり、(中略) 

    >> 奴隷状態と悲惨とが芽ばえ、成長するのが見られたのであった」

    >> と述べている部分に、その主張を端的に読み取ることができる。


    悪の起源は社会の誕生である。

    その社会から、不平等、私有、労働が派生し、社会がヒトを縛り、ヒトは自由を失う。

    文明観はそうなるけれど、その文明観から既にある社会に制度論を構想するとどうなるか。

    悪は社会に内包されているのだから、その悪を抑え込むのに《自由》を希求すべきである、となるし、

    自由をヒトの自然状態とみなせば、自然に還れ、となる。

    悪の起源が社会を起源とするというルソーの観察は、その通りであると思うし、
    ー    社会を集団と置き換える。大きくまとまることが悪の起源。

    ルソーの考え方の面白さは、

    ヒトが集まることを必ずしも良しとはせず、(むしろ否定的)

    しかし集まる以上、集団に対しては抑止装置としての対抗概念が必要で、それを《自由》としていること。

    これは《まとまらない原理》である。
    ー    勝手気ままにするという意味での自由ではない。
    ー    そこでは社会はただまとまるのではなく、条件付きでまとまる。《契約》という条件付きでまとまる。

    加えるにその面白さは、

    極めて人工的な所産である社会(たかだか1万年)と、進化過程でビルトインされている本能(数十万年〜数100万年)との調和、もしくは妥協を図らんとするかの如くの構想になっているところ。

    -----------------

    追記しておきましょう。

    【ホッブスは集団について、ルソーは集団になる前について語っている】という話。

    http://ja.m.wikipedia.org/wiki/
    %E4%BA%BA%E9%96%93%E4%B8%8D%E5%B9%B3%E7%AD%89%E8%B5%B7
    %E6%BA%90%E8%AB%96
    (wikipedia、ルソー、「人間不平等起源論」)

    《ホッブス》はヒトが比較的大きな社会集団を築いている状況で、ヒトの《自然状態》を観察する。ルソーも同様に観察するが、同時にそこから比較的大きな集団が形成される以前の状況を推測する。

    上記の「起源論」でのルソーの推測は興味深いが、時代状況の制約から、つまり《ダーウィン以前》であることから、推測に飛躍が入ることはやむを得ない。
    ー    20世紀半ば以降の知見では、ヒトは小集団で狩りを長期間続けて進化してきたサルであり、ルソーの推測に見られるような《個の自然状態》に置かれていたわけではない。食と性と狩りを営むミニ集団(100人のオーダー)に適応している。
    ー    現在の知見に照らし修正がかかるのは《家族》の箇所。とはいえ、ルソーの論旨に大勢では影響しない。ミニ集団の生活様式は、大きな集団のそれとは大きく異なることに違いはないから。

    -----------------

    追記を重ねておきましょう。

    【悪は必ずしも悪ではない、しかし・・】という話。

    《悪》は文明化し社会化した人にとって大きな意味を持つけれど、それ以前のヒトにとっては意味を異にするのかもしれない、という話。
    http://www.msz.co.jp/book/detail/01599.html
    (ローれンツ、『攻撃−悪の自然史』、日高・久保、1970、みすず書房)

    >>(本書は)さまざまの典型的な攻撃的行動を観察し、

    >> 同一種族間に行なわれる攻撃は、それ自体としては決して《悪》ではなく、種を維持する働きをもっていることを示す。

    >> つづいて本能の生理学一般、特に攻撃本能の生理学について詳細な考察を行ない、さらに攻撃本能が儀式化される過程を興味深い実例によって述べる。

    >> 最後に、種が変化するにつれて、攻撃を無害なものとするためにどのような仕組みが《編みだされ》てきたか、儀式はここでどのような役割をひき受けるか、またこうして生まれた行動様式が、《文明をもつ》人間の行動様式とどれほどよく似ているか

    悪の《自然史》というくらいであるから、それ即ち、悪は悪のようであって悪ではない。

    逆説的であるが、同一種族間に存在する攻撃それ自体は悪ではない、という見方が採られる。
    ー    ヒトが動物の範疇に収まりうる限りにおいて。しかし、ヒトは集団、社会、文明により、動物から逸脱してしまっているから、必ずしも悪とは言えないものが、そこで悪に転じることになる。

    大きな集団を作るに至ったヒトがヒトを《まとめる原理》についての、ゲーテの言葉が引用されているが、おおいに的を射ている(↓)。

    >> “大勢(マッセ)を引きとめるにはとにかく大量(マッセ)にかぎるよ” (byゲーテ)

    -----------------

閲覧 38261
60 【25653】Re:一般とは?〜社会における労働が人間を事物化し疎外する
沈黙の朱夏    2014-9-25 9:40:40  [返信] [編集]

    悪の起源は社会の誕生だ、というルソーの文明観を紹介しました。

    ルソーはその《社会》における安全装置、対抗概念として《自由》を説いた、

    その構図は、

    《社会》vs《自由》なのである、

    そう観ています。

    社会にもいろいろあり変遷もするが、

    現代的テーマとして「白熱教室」でマイケル・サンデル教授は、

    《功利主義》vs《自由》を取り上げていました。

    功利主義というのは、最大多数の最大幸福を、社会的経済的な目標に設定するものであるが、

    《多数》の文字通り、そこでは《社会集団》が設定されていて、

    しかもその設定は、暗黙の了解になっている。

    功利主義では、多数派の幸福を追求するが、多数があれば少数もあり、幸福も様々である。幸福を効用と呼び替えてもそれはトートロジーであるし、効用を有用性や利便性、快適性で置き換えると杓子定規になる。

    つまり、価値として漏れ出てしまうものが必ずあり、また少なからずあり、

    であるから、そこに論争の余地が生じ、

    功利主義vs自由という問題設定がなされる。

    社会集団における個人とその社会の関係の問題です。

    そうした話の続きです。

    同時に、別スレッドでの「常識哲学」の続きでもある。

    そこでもろもろの事象の媒介項として、《労働》に注目してみましょう。

    ジョルジュ・バタイユとマルクスを取り上げます。

    ==============

    バタイユ
    "労働する人間〜役立つ人間〜は、後にそうなるはずのものという価値を持つのであって、この瞬間にそうであるものという価値を持つのではない"

    マルクス
    "労働者は、労働の外部ではじめて自己のもとにあると感じ、そして労働のなかでは自己の外にあると感ずる"

    ==============

    何を言っているのか(↑)と言えば、

    ヒトと労働とが不可分にあるということ、

    そしてヒトと労働とが、社会とともに乖離していって、ヒトが自分を見失う、ヒトが自ら創造した社会によって《疎外》されるということです。

    二人ともそういうことを言っている。

    ほんの少し考えてみると、

    道具を使うというのがヒトの顕著な特徴であるから、(言語を使うのと同様)

    ヒトと労働は自然に不可分にあるといえるでしょう( ̄▽ ̄)b
    ー   ヒトが労働に価値を見出す存在であるということです。

    また、ヒト社会集団が大きくなると、またその集団で用いる道具が発達してくると、

    労働の姿(形態)というものが変わってくる。

    そうすると、ヒトと労働の関係も当然変わってくる( ̄▽ ̄)b

    発展した社会における労働は、
    ー   それは取りも直さず大きな社会集団での労働です。

    ヒトと労働を遠ざける、と二人とも言っていて、

    バタイユは、労働はヒトを《事物化》すると言い、

    マルクスは、特に資本制のもとでの労働はヒトを《疎外》すると言っている。

    ヒトと労働を遠ざけるというのは、

    ヒトが労働それ自体への興味や喜びを感じにくくなってしまうということです。

    なかなか面白いんです(↓)。

    ==============

    バタイユ
    "労働する人間〜役立つ人間〜は、後にそうなるはずのものという価値を持つのであって、この瞬間にそうであるものという価値を持つのではない"

    ==============

    ヒトもまた瞬間の価値を生きる動物であるのに、それを先送りする。
    ー   現在の価値を将来に先送りするだけでなく、ユートピアや来世に先送りしたりもする。

    これは、行動の結果を予想して逆算して行動するという《帰結主義》でもあるし、推論して判断するというヒトの《理性》の働きでもある。

    バタイユが描写しているのは、動物(自然的な存在)から逸脱した人間の抱えるジレンマです( ̄▽ ̄)b

    バタイユの考え方を少しだけ詳しく見ておきましょう。
    http://homepage3.nifty.com/toyodasha/sub9/sub9-29.htm
    (スローワーク論、バタイユ〜人間たらしめ、かつ事物化させてしまう労働の両義性)
    http://1000ya.isis.ne.jp/0145.html
    (松岡正剛、千夜千冊、バタイユ「マダムエドワルド」)

    前者はヒトと労働の関係についてのバタイユの論、後者はバタイユの思想の全体像。

    後者・千夜千冊より、

    >> バタイユは過激な西欧批判者の西欧者である。なぜバタイユがそうであるのかは、容易には説明できない。
    >> ・・・
    >> バタイユが捨てたのは西欧の基礎を支えてきたラテン語とキリスト教である。この二つが西欧の「理性」を構築している以上、これを破壊することがバタイユの任務となった。逆に、ラテン語世界とキリスト教世界にいる者から見れば、バタイユこそがおぞましい反逆者であった。

    理性とは、我々が日常使用する理性とは微妙に定義が異なっていて、それは推論能力と悟性であると申し述べましたが、

    バタイユは彼なりにその理性の源流はどこにあるかという指摘を行っているわけです。

    なださんの「常識哲学」を読むと、不思議に思うところが必ずあるはずです。

    平和を実現しようという場合、

    理性によってそれを行うと普通であれば考えそうなところを、

    理性はダメだ、常識だ、と来るわけだから。

    そうでしょ( ̄▽ ̄)b

    そして、マダム・エドワルド(↓)。

    >> 話の筋はかんたんで、町の片隅で男が娼婦マダム・エドワルドの股間を覗く。男は欲情したままに、娼婦が女陰を自分の指で開きながら「ほらね、あたしは神様よ」と言うので絶顛にのぼりつめようとするのに、のぼりつめられずに、ふとヘーゲルの絶対知を思い出す。たったこれだけである。
    >> のぼりつめたのはバタイユではなく、マダム・エドワルドのほうだったのである。

    途中で中折れじゃあヽ( ̄▽ ̄)ノ

    日常ではそうですが、非日常をテーマにするバタイユは、それだけじゃないんです。

    一応、哲学ですから( ̄▽ ̄)b

    ヘーゲルの絶対知というのは、客観と主観の究極的な一致です。

    客観がマダム・エドワルド、主観が男でありバタイユで、客観と主観の一致を説く西欧の理性主義を否定している。

    同時にイケないと言っているわけです( ̄▽ ̄)b

    もう一度、こちら(↓)を見てみると、

    ==============

    バタイユ
    "労働する人間〜役立つ人間〜は、後にそうなるはずのものという価値を持つのであって、この瞬間にそうであるものという価値を持つのではない"

    ==============

    労働する人間でも必ずしもそうではない労働する人間が実際にいました。
    ー   バタイユの考えるヒトと労働の本来の関係に近いだろうという意味において。
    ー   同時にそれは、バタイユが疎外された労働の対極にとしてある至高性として見出す《消尽》でもある。
    http://kotowaza-allguide.com/e/edokkohayoigoshinozeni.html
    (故事ことわざ辞典)

    それが、

    江戸っ子は宵越しの銭は持たねぇ~です( ̄▽ ̄)b

    マルクスに続く。

    -----------------

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61 【25654】Re:一般とは?〜社会における労働が人間を事物化し疎外する・その2
沈黙の朱夏    2014-9-25 10:00:51  [返信] [編集]

    続きです。

    ==============

    バタイユ
    "労働する人間〜役立つ人間〜は、後にそうなるはずのものという価値を持つのであって、この瞬間にそうであるものという価値を持つのではない"

    マルクス
    "労働者は、労働の外部ではじめて自己のもとにあると感じ、そして労働のなかでは自己の外にあると感ずる"

    ==============

    マルクスにおける《人間と労働》の関係です。

    マルクス経済学での《剰余価値論》でもなければ、マルクス主義での《階級闘争論》でもない、

    それらに先立つ人間と労働の《関係》です( ̄▽ ̄)b

    とても優れた論考であると思うので、お目通し頂きたいところであるが(↓)、
    http://homepage3.nifty.com/toyodasha/sub9/sub9-69.htm
    (スローワーク論、マルクス〜葬られた疎外された労働)

    >> 人間の自己産出をひとつの過程としてとらえる。自己産出とは労働である。労働とは自己を対象化することである――ヘーゲル哲学にマルクスはこのような労働論をみている。
    >> 人間が自己産出すること(自己表現、生産等の諸活動)を労働ととらえている。自己産出(労働、活動)は、対象化としてある。

    どういうことか?

    ヒトと労働が不可分であるとしておきましょう。
    ー    進化過程においても。ヒトを《狩りをするサル》との形容もある。

    その上で、人間が労働をする時、心理的に何が起こるのか?という話をマルクスはしている。

    ヒトは自分を確認することを求める存在だとしておきましょう。
    ー    バタイユによれば人間は自分の有限性を、死を含め唯一自覚できる存在である。

    すると労働は、確認の手段として物理的に《外》にあるが、心理的に《内》にもある。
    ー    心理的には自分の分身が外部に作られる。ということで、外への対象化であり、内での自己産出。

    >> 対象化を通じて自己実現する。だが、対象化は必ず否定を含んでいる。自己実現から逸れてしまう。否定が対象化を生むが、対象化も否定を生む。疎外とは、この対象化、外化とほとんど重なる。ただ、「よそよそしくなる」という意を強く含む。

    ややこしいヽ( ̄▽ ̄)ノ

    分身を労働という形で外部に作っても、面白い、楽しいと感じられなかったり、或いは報われないと感じれば、

    外化された労働は自分から否定的によそよそしく遠ざかる。
    ー    肯定的に感情移入できなくなる状況と言ったらよいだろう。

    社会的制度的要因で、

    労働を強制されたり、分業が進んで外化された労働がそもそも自らの分身たり得ないという状況はまさにそれ。

    労働は人間を疎外するというのは、バタイユが労働は人間を事物化するというのとパラレルだと観てよいでしょう。
    ー    人間は労働を自己産出するというのは、バタイユが人間は労働により人間となるというのとパラレルだと観てよいでしょう。

    >>疎外という場合には、対象(自己)の喪失、自己の分離の意味合いが強められる、というのにすぎない。疎外も疎外止揚とともにしかとらえられないものとしてある。疎外止揚は疎外とともにある。

    マルクスは労働には《二重性》があると言い、バタイユは《両義性》があると言う、そのことを指す。

    >> だから、疎外とは資本制という一時代の生産様式にのみ固有のものではない。

    ここ(↑)が、面白いところ。

    疎外は資本制に固有のものではない。

    もちろん、疎外は資本制において強く現れ出るが、

    疎外は(疎外止揚も)、もともとのヒトと労働の関係の内にある。

    つまり、その現象の起源は、制度論というよりヒト種固有の発生論的なものである( ̄▽ ̄)b

    もちろん、疎外は制度論に関わります。
    ー    奴隷制のもとでは、労働は疎外される。(その疎外された労働が、大きな社会集団の形成とともに、文明や富の発祥をもたらしたとも言えるわけだが。)

    しかし、ヒトと労働との関係は社会制度に先行する、と着眼するわけです。

    マルクスもバタイユも(ヘーゲルも)、ヒトと労働との関係を見ている。

    そこに着眼するとどういうことが言えるかといえば、

    資本制は労働においてヒトを疎外する、疎外することを助長する、

    だから改めるべきだと考えたとしても、

    ヒトと労働との関係は《生産様式》に規定されるのだから、
    ー     注記。一時代の生産様式に固有に規定されるのではなく、生産様式に規定される。

    生産様式を変えずに、国家の富の《所有権》を移動させても、

    つまり、資本制を共産制と呼び替えても、実質、何も変わらない。
    ー     計画経済にせよ、市場経済にせよ、大規模に分業するという生産様式は同じです( ̄▽ ̄)b 

    上記の論者さんは、こう指摘している(↓)。

    >> この「疎外された労働」、「労働における疎外のかたち」は、百五十年以上経た今日も基本としては変わっていない。だが、この労働における疎外のかたちについて、声を大にする人はまったくといってよいほどいなくなってしまった。

    そりゃそうです。

    もともとはマルクスは、(バタイユもヘーゲルも)、ヒトと労働の関係に着眼していたのだが、

    近現代の生産様式を《所与》にして、

    その生産様式が生み出した富の《所有権》と、その生産様式が生み出す富の《分配》に、専ら社会的な関心が向かっていたわけだから。

    疎外された労働というのは消し飛んでいます( ̄▽ ̄)b

    そしてそもそものお題に戻っていくなら、

    戦争というのは、所有権と分配を巡る争いごとです。

    生存資源を確保し維持することを目的にそれを行う。或いは、そのために起こる。

    そして、ヒトは動物とは違った意味で馬鹿ではないから、

    今日必要とする分を確保することでは満足できないから、

    将来に必要とする分を併せて生存資源を確保しようとする。

    ヒト種固有の理性を発揮し、帰結主義で行動するとそうなる( ̄▽ ̄)b

    他の動物(霊長類)の場合は、順位制と縄張りに基づき闘争するけれど、

    長期的に生存資源を確保するためにとは、発想も行動もしない。

    戦争は極めて人間的(ヒト的)な現象であるので、

    無くすことはできません。
    ー    戦争機会を減らすことはできると思うにせよ、ハードルが高い。

    近現代の生産様式は、

    単に労働の疎外という問題を孕むというだけではなくて、

    その生産様式のもとで維持される莫大な社会人口を、

    資源エネルギー、つまりは《生存資源》を莫大に消費することで維持し回しているのであるから、

    その生存資源を長期的に確保すべく動機付けられている。
    ー    戦争機会を減らす方向には全くないと観る所以。

    マルクスは、その近現代の生産様式に顕著に立ち現れる疎外をそもそもの問題にしていたはずなのだが、

    どこかに消し飛んだままでは、《惜しい》ということで、言及いたしました。


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