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 【25654】Re:一般とは?〜社会における... 沈黙の朱夏 2014-9-25 10:00:51

61 【25654】Re:一般とは?〜社会における労働が人間を事物化し疎外する・その2
沈黙の朱夏    2014-9-25 10:00:51  [返信] [編集]

    続きです。

    ==============

    バタイユ
    "労働する人間〜役立つ人間〜は、後にそうなるはずのものという価値を持つのであって、この瞬間にそうであるものという価値を持つのではない"

    マルクス
    "労働者は、労働の外部ではじめて自己のもとにあると感じ、そして労働のなかでは自己の外にあると感ずる"

    ==============

    マルクスにおける《人間と労働》の関係です。

    マルクス経済学での《剰余価値論》でもなければ、マルクス主義での《階級闘争論》でもない、

    それらに先立つ人間と労働の《関係》です( ̄▽ ̄)b

    とても優れた論考であると思うので、お目通し頂きたいところであるが(↓)、
    http://homepage3.nifty.com/toyodasha/sub9/sub9-69.htm
    (スローワーク論、マルクス〜葬られた疎外された労働)

    >> 人間の自己産出をひとつの過程としてとらえる。自己産出とは労働である。労働とは自己を対象化することである――ヘーゲル哲学にマルクスはこのような労働論をみている。
    >> 人間が自己産出すること(自己表現、生産等の諸活動)を労働ととらえている。自己産出(労働、活動)は、対象化としてある。

    どういうことか?

    ヒトと労働が不可分であるとしておきましょう。
    ー    進化過程においても。ヒトを《狩りをするサル》との形容もある。

    その上で、人間が労働をする時、心理的に何が起こるのか?という話をマルクスはしている。

    ヒトは自分を確認することを求める存在だとしておきましょう。
    ー    バタイユによれば人間は自分の有限性を、死を含め唯一自覚できる存在である。

    すると労働は、確認の手段として物理的に《外》にあるが、心理的に《内》にもある。
    ー    心理的には自分の分身が外部に作られる。ということで、外への対象化であり、内での自己産出。

    >> 対象化を通じて自己実現する。だが、対象化は必ず否定を含んでいる。自己実現から逸れてしまう。否定が対象化を生むが、対象化も否定を生む。疎外とは、この対象化、外化とほとんど重なる。ただ、「よそよそしくなる」という意を強く含む。

    ややこしいヽ( ̄▽ ̄)ノ

    分身を労働という形で外部に作っても、面白い、楽しいと感じられなかったり、或いは報われないと感じれば、

    外化された労働は自分から否定的によそよそしく遠ざかる。
    ー    肯定的に感情移入できなくなる状況と言ったらよいだろう。

    社会的制度的要因で、

    労働を強制されたり、分業が進んで外化された労働がそもそも自らの分身たり得ないという状況はまさにそれ。

    労働は人間を疎外するというのは、バタイユが労働は人間を事物化するというのとパラレルだと観てよいでしょう。
    ー    人間は労働を自己産出するというのは、バタイユが人間は労働により人間となるというのとパラレルだと観てよいでしょう。

    >>疎外という場合には、対象(自己)の喪失、自己の分離の意味合いが強められる、というのにすぎない。疎外も疎外止揚とともにしかとらえられないものとしてある。疎外止揚は疎外とともにある。

    マルクスは労働には《二重性》があると言い、バタイユは《両義性》があると言う、そのことを指す。

    >> だから、疎外とは資本制という一時代の生産様式にのみ固有のものではない。

    ここ(↑)が、面白いところ。

    疎外は資本制に固有のものではない。

    もちろん、疎外は資本制において強く現れ出るが、

    疎外は(疎外止揚も)、もともとのヒトと労働の関係の内にある。

    つまり、その現象の起源は、制度論というよりヒト種固有の発生論的なものである( ̄▽ ̄)b

    もちろん、疎外は制度論に関わります。
    ー    奴隷制のもとでは、労働は疎外される。(その疎外された労働が、大きな社会集団の形成とともに、文明や富の発祥をもたらしたとも言えるわけだが。)

    しかし、ヒトと労働との関係は社会制度に先行する、と着眼するわけです。

    マルクスもバタイユも(ヘーゲルも)、ヒトと労働との関係を見ている。

    そこに着眼するとどういうことが言えるかといえば、

    資本制は労働においてヒトを疎外する、疎外することを助長する、

    だから改めるべきだと考えたとしても、

    ヒトと労働との関係は《生産様式》に規定されるのだから、
    ー     注記。一時代の生産様式に固有に規定されるのではなく、生産様式に規定される。

    生産様式を変えずに、国家の富の《所有権》を移動させても、

    つまり、資本制を共産制と呼び替えても、実質、何も変わらない。
    ー     計画経済にせよ、市場経済にせよ、大規模に分業するという生産様式は同じです( ̄▽ ̄)b 

    上記の論者さんは、こう指摘している(↓)。

    >> この「疎外された労働」、「労働における疎外のかたち」は、百五十年以上経た今日も基本としては変わっていない。だが、この労働における疎外のかたちについて、声を大にする人はまったくといってよいほどいなくなってしまった。

    そりゃそうです。

    もともとはマルクスは、(バタイユもヘーゲルも)、ヒトと労働の関係に着眼していたのだが、

    近現代の生産様式を《所与》にして、

    その生産様式が生み出した富の《所有権》と、その生産様式が生み出す富の《分配》に、専ら社会的な関心が向かっていたわけだから。

    疎外された労働というのは消し飛んでいます( ̄▽ ̄)b

    そしてそもそものお題に戻っていくなら、

    戦争というのは、所有権と分配を巡る争いごとです。

    生存資源を確保し維持することを目的にそれを行う。或いは、そのために起こる。

    そして、ヒトは動物とは違った意味で馬鹿ではないから、

    今日必要とする分を確保することでは満足できないから、

    将来に必要とする分を併せて生存資源を確保しようとする。

    ヒト種固有の理性を発揮し、帰結主義で行動するとそうなる( ̄▽ ̄)b

    他の動物(霊長類)の場合は、順位制と縄張りに基づき闘争するけれど、

    長期的に生存資源を確保するためにとは、発想も行動もしない。

    戦争は極めて人間的(ヒト的)な現象であるので、

    無くすことはできません。
    ー    戦争機会を減らすことはできると思うにせよ、ハードルが高い。

    近現代の生産様式は、

    単に労働の疎外という問題を孕むというだけではなくて、

    その生産様式のもとで維持される莫大な社会人口を、

    資源エネルギー、つまりは《生存資源》を莫大に消費することで維持し回しているのであるから、

    その生存資源を長期的に確保すべく動機付けられている。
    ー    戦争機会を減らす方向には全くないと観る所以。

    マルクスは、その近現代の生産様式に顕著に立ち現れる疎外をそもそもの問題にしていたはずなのだが、

    どこかに消し飛んだままでは、《惜しい》ということで、言及いたしました。


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