打てば響く 
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12月12日  「ヒーローと英霊」

 アメリカのCNNが、イラク戦争の戦死者を「フォールン・ヒーロー」つまり「倒れた 英雄」とよんでニュースで紹介している。日本も戦死者を英霊と呼んで靖国に祀っ た。

 戦死者の美化ほど空しいものはない。たとえ戦争であろうと、人殺しは美化でき ない。だから相手の死者は数えない。(ファルージャで壊された家の損害賠償は すると米軍はいっているそうだ。巻き添えで破壊された家が多いこと。破壊しつく された廃墟の町の報道のショックを和らげるためだろうか)。

 世界のジャーナリズムはファルージャに入って報道させろと、報道の自由をどう して主張しないのだろう。戦闘が終わってどれくらいになるか。ファルージャにまだ 報道陣も赤十字さえも中に入れない状態が続く。

 衛生的に危険があるからという理屈がつけられているが、見せられないようなこ とを米軍がやっていることか。ファルージャの市民は、自分の家に戻れない。つま り選挙には参加させてもらえないことになりそうだ。ともかく自軍の死者の数は  正確に数えるが相手側の死者、巻き添えの市民の死者数は数えないというの が、戦争する国の政府に共通する姿勢だ。

 中国での日本軍の戦死者は10数万。(正確な数字は来年に出る「ちくま」のぼ くの一文を見て欲しい)。米軍との戦線での死者は200万を越す。これは正確に 数えられている。何しろ靖国の英霊の数なのだから。
 中国人の死傷者約2400万と日本の百科事典には載っている。だが日本政府 は正確に把握していない。国会で質問してみるがいい。中国軍の戦死者、民間人 死者、負傷者は何人かと。

 それから靖国の英霊の戦死者の死亡年金(恩給)と旧軍人への恩給が、サンフ ランシスコ条約が結ばれた直後(1953年)から(国民の皆年金制度が実施され るずっと以前のこと)復活し、現在まで何十兆円が支払われてきたか。戦争によ る民間人の受けた損害の補償は一円もなく、原爆死者、空襲による死者、沖縄 の民間人死者は、靖国には祀られていない。官の籍をもったものだけを選別して 祀り、金銭的に報いる。それに疑問を持たないのが靖国に参って不戦を誓うもの の精神である。



11月16日  「掲示板というもの」

 掲示板は日本には現実にはない架空の自由な広場だというのがぼくの考えで す。そしてそこで自由に意見を交換したり、議論をしたりするためには、いくら広 場でも、立小便(大は論外)に類することはひかえてもらいたい。でも、それは最 小限のマナーというものです。「自分がしてほしくないことは他人にもしない」これ が原則です。あとは自由。理想かもしれないが、そうあって欲しいですね。

 広場での論争に関してのぼくの意見。
 テロリストとレジスタンスの違いを価値観の違いと切り捨てていた人がいました が、ぼくの考えを述べておきます。テロリストという言葉はレッテルのための言葉 です。レジスタンスという言葉は、レッテルではありません。主張の言葉です。そ の違いがあります。

 自分の国に攻め込んできた軍隊に抵抗している人たちは、自分たちがテロリス トだとは思っていません。レジスタンスをしていると思っています。占領している軍 隊が、自分に抵抗している(まつろわぬ)ものに貼り付けるのが、テロリストという レッテルです。テロリストだと自分で思っているテロリストはいません。ただ、レジ スタンスの名の下に、なんでもやっていいか、となると、レジスタンスの仲間の間 でも、意見が分かれるでしょう。ぼくは非暴力不服従というガンジー的手段を、レ ジスタンスの方法として選ぶでしょう。

 学力が落ちた、いや落ちていないの論争する方たちにも、考えて欲しいことがあ ります。学力とは何かを定義したうえで、落ちているかいないか、を議論してくださ い。学力とはなんですか。アジアの大学生の学力の比較で、京大が一位だったそ うですが、その京大の大学院の学生が、遊ぶ金欲しさに銭湯で財布を盗んだとい うニュースが、流れていました。この京大の大学院生は学力は高かったのでしょ う。でも、何のための学力か、ということです。学力だけが高ければいいというも のではないだろうな、と思います。あるいは、学力の計り方が問題なのかもしれま せん。道徳的要素は一切無視したモノサシで計るものであっていいのか、というこ とになります。

 広場での議論を、出来るだけ、意見の交換の場所という理想の姿に近づけるよ うに、しましょう。場所を貸している人間として、最小限の要求だと思うのですが。



11月10日  「ファルージャはゲルニカになる」

 アメリカ軍の戦争の仕方は、爆撃に頼るのが特徴です。日本に対する戦争のと きと、まったく変わっていない。爆撃で相手の戦力を徹底的に破壊したあとで、こ わごわと地上部隊が進む。アフガニスタンの山岳地帯で、同じようなことをして、タ リバンとの戦闘で成功したかもしれませんが、荒れた山に展開したタリバンに高 性能爆弾を撃ち込むのと違います。ファルージャは、何十万の人間の住んでいる 町です。そこに爆弾を撃ち込むのです。どうして市民とゲリラの区別が出来るでし ょう。
 かなりの数の住民は、町の外に避難しているでしょうが、残っているものも、ま だ沢山いるでしょう。そもそも、何十万もの人間をどうやって避難させるのです。 新潟の避難を見ていても大変だな、と思いますが、その避難民を世話する行政 も、ボランティアもいないのです。避難させるには、テントも食料も必要です。避難 した人たちが暮らしている姿を見ましたか。そんな映像は送られてこなかった。

 こういう場合、残されたのは、弱者ばかりです。その人たちに、爆弾が落とされ るのです。BBCの映像を見ていると、親子爆弾が使われているようです。ゲリラ だけを正確に狙っているのではなく、一人のゲリラのまわりに、砲弾の網をかけて いるようなものです。
 アメリカはテロリストとの戦争だといっていますが、テロリストより一般市民の犠 牲の方がずっと多い。はじめは多量破壊兵器のための戦争だといったが、それ が見つからないと、サダム・フセインを倒すための戦争だといった。そしていつの 間にか、テロとの戦争になっている。

 アメリカが国際司法裁判所の条約に批准しないのは、アメリカ軍が、戦争犯罪 人として告発されるのを恐れるからだということですが、おそらく十分に意識して のことでしょう。ファルージャは、このままでは、ゲルニカのように象徴的な町にな ります。黙ってはいられません。



11月2日  「原点に戻る」

 掲示板を見ていると、スレッドが一対一のほとんど喧嘩の場に化していることが ままある。香田くんという青年がイラクで死んだことをめぐっての論争も、論争とい うよりは喧嘩だ。喧嘩も見ていて面白いものもあるが、見ているものを不愉快にし てしまう喧嘩もある。現在の掲示板の喧嘩はそちらの方だ。

 無鉄砲な青年香田君は、何でも見てやろうの小田実のように少々無鉄砲な、好 奇心の強い人間だったのだろう。かれが死んだのは不幸なことだった。かれの死 だけを取り上げて論争しても実りはない。この問題をイラク戦争の原点にまで戻 って考えてみよう。

 そうすれば、ここが本当の論争の場になるだろう。テロリストという呼び名だけが まかり通っているが、アメリカ軍がイラクに攻め入った大義名分とはなんだろう。 その点で、ほんとうにアメリカは正しい、と思っているものは日本にも、世界にも、 ほとんどいないのではないか。イラクはアメリカではないのだ。ここには米軍が入 るまで、アルカイダの組織もなかった。それはアメリカの情報部が認めている。

 イラク人の身になってみよう。アメリカの占領をこころから歓迎してるものがどれ だけいるだろうか。自分の国に外国の軍隊が入り込んできたら、あなたはどうす るか。ぼくはガンジー主義だから、非暴力不服従を勧めるが、武力で抵抗を考え るものもいるだろう。自衛隊容認派の人たちは、外国が攻めてきたときに武力で 抵抗するために自衛隊が必要だといってきた。その人たちは、イラク人のゲリラ 的抵抗を認めないのだろうか。憲法9条を護るぼくが認めないというのなら論理 的に当然だろうが、自衛権を認める人が、ゲリラ的抵抗を認めないのは、どういう 論理だろう。ベトナム戦争のとき、抵抗したベトナム人はテロリストなのだろうか。 ベトナム人にあなたたちはテロリストだったといえるか。

 圧倒的武力を持ったアメリカ軍に対応するのはゲリラ的方法しかない。しかし、 ゲリラ的抵抗するものをテロと呼び、そしてかれらが隠れていると思しきところに 爆弾を落とし、砲撃する。市民を巻き込まずに、爆弾を落とすことなどできるはず がない。むしろ市民の犠牲を見越し、それゆえにゲリラに抵抗を断念させようとす るのが爆撃だ。

 急に太平洋戦争に戻るが、日本の東京大空襲などは、市民の犠牲によって、 軍部に圧力をかけるという意図の例であった。アメリカの将軍の中には、アメリカ が戦争に負けたら、自分たちは戦犯だな、と自嘲的に話していたものもいた。

 テロは非道である。 だからぼくはテロを認めない。絶対非暴力主義者だ。だ が、テロは非道だという小泉首相は、非暴力主義者ではない。かれは、ファルー ジャに爆弾を撃ち込む正規軍は、非道ではないというのだろうか。自衛隊は戦後 の復興支援だというが、アメリカ軍は未だに、どんどん破壊を続けている。どこが 戦後だろう。自衛隊は、ファルージャに爆弾を撃ち込む米軍を、精神的に支援す るために、イラクにいるのだ。現在のイラクでは、テロで死ぬ米兵より、アメリカの 爆弾で死ぬ一般市民の方がはるかに多い。自爆攻撃で巻き添えになる一般市民 も多いが、子ども女性を含んだ、ファルージャの戦闘での死亡者はそれよりはる かに多い。そうした点をもう一度考えてみよう。掲示板を、二人の喧嘩の場にせ ず、そうした根本的な問題を考える場にして欲しい。



10月18日  「産業再生機構とはなにもの?」

 ダイエーが「産業再生機構」の手に委ねられることになった。
 それによって、だれに、どのような利点があるのか、結局は税金が使われるの だろうが、よく分からない。国民にはその方が利益なのだろうか。

 よく分からない人に、一つぼくの身近にある例を引いて、考えてもらおう。
 大京がUFJのお荷物であり、最近、産業再生機構の助けを借りることになった ことは、多くの人がご存知だろう。ご存じない人は、知ってもらったことにして先に 進む。

 さて、小生の住んでいる北鎌倉には、小泉邸(といっても首相とは関係ない)と いう大正13年、震災後に建てられた、和洋合体の美邸がある。庭のコブシの大 木は、花が見事で、北鎌倉のランドマークだ。ここを買い取ってマンションを開発 しようとした山田建設は、住民の反対にあって撤退した。

 ところがその撤退する山田建設から、マンション建設計画を買い取ったのが大 京である。自分の持っていた不良債権の活用ではない。そして、すぐに強引に建 設を計画通り進める大京に、この小泉邸が、鎌倉に残された大正期建築の数少 ない代表例であることから、鎌倉の景観を保存したい住民が、取り壊しの前に、 小泉邸の文化的価値を調査するよう要求した。慶応大学の建築史に関心を持つ 研究室が、調査を請け負ってくれこともきまった。ところが、調査の日日も決まら ないうちに、取り壊しを予定通り始めると発表した。これを後押ししているのが「産 業再生機構」である。

 なんとも納得しがたい構図ではないか。なんで、住民の反対を強引に排除して マンションを建設するのを、税金でサラリーを払っている官僚が支援するのか。し かも、これまで保有していた土地の活用ではない。他の会社が、経済的に合わな いと判断して撤退した土地を買っての計画である。潰れかけた会社を強引に再生 させるために、日本の古い美しい景観を潰してしまう。会社は再生するが、景観 は再生しない。

 こんなことのために税金を払っていると考えると払うのがイヤになる。でも、銀行 振り込みで強引に取られてしまうが。税金を取るときには、教育にこれだけ使って いる、などと宣伝しているが、取ってしまうと、こういう風に使うのだ。税金を払い たくなくなる。

 それに、景観保全法を通した議員たちよ、何をしているのだ。
  鎌倉は東京からさほど遠くない。現状を見にきたらどうか。この法律を適用す る一号にしたらどうなのだ。「産業再生機構」なんてものはいらない。ダメな会社 はつぶれた方が、日本の活性化につながる。日本は戦後ゼロから出発したの だ。



10月14日  「人のセリフ、自分のセリフ」

 他人にいってもらえば、活きるセリフもあり、自分でいえば、寅さんの十八番の セリフじゃないけど「それをいったらおしめえよ」になってしまうことがあります。マ ハティール首相のような他人に「日本は過去のことにいつまでもこだわっていない で、前を向きましょう」といわれれば「そうだなあ」ということになりますが、過去の 戦争の被害者の国に「遠い昔のことじゃないか、そろそろ忘れたらどうなんだ」と いったら、「それをいっちゃあおしめえよ」になります。日本人は自虐的だという人 たちは、そのニュアンスがお分かりにならない。

 いかにいい言葉であっても、人のこころにしみこまないのは、しゃべる人による ことを、この人たちがいつの日か理解できることを。



10月8日  「少し、引いて見てみよう」

 老人党の掲示板が、ちょっと混乱している。おちょくられたり、罵られたりするの は、不愉快かもしれないが、ホームページの掲示板はヴァーチャルな広場である ことを思い出して欲しいですね。こういうとき、冷静でいられるのと、いられないの と、どちらがよいか。もちろんいかなる場合でも、冷静であることでしょう。ぼくは戦 争末期に軍の学校に在籍していました。今でも役立っている、そこで学んだ、数 少ないことの一つです。

 教科書問題のスレッドに沢山の書き込みがあるのは、この問題はエネルギーを 集めるなあ、と少し引いて考えれば、分かることです。南京虐殺の問題を、日本 の歴史から消したいと思っている人がいることは確かだし、その人たちがいうこと が、いちいち神経に触る、と感じる人も多いでしょう。でも、神経に障るのは、それ なりの理由があります。これまでの教科書の記述に、論理的に弱点があり、そこ を巧妙に突くからです。少し引いて問題を眺めてみましょう。

 過去の教科書批判は、部分的な欠点を突いて、全体を存在しなかったかのよう に主張する議論です。でもその論理は、教科書の間違いを指摘して、事実をなか ったことにしてしまおうとするものです。
 欠点をたくみに突いて、部分を否定して、南京虐殺という全体を存在しなかった ように主張するのことが、間違いであることが分かるでしょう。教科書にどう書か れているかよりも、当時のことを、外国特派員が、どう見て、どう報じていたかを 調べればいいのです。それによれば、どの数が正確かではなく、虐殺の客観的な 証言者がいたということです。

 ロベール・ギランは親日家として有名なAFP通信(後、ル・モンドの東京在住記 者)の記者で、当時上海にいました。かれが本国に、この事件に関して打電して います。虐殺を報告しているのです。当時のジャーナリズムは裏を取って報告す るということをきちっと守っていた。
 かれは日本びいきでしたが、この問題では、戦後に書いた本でも、日本軍の許 されない罪として、残念がっていました。

 掲示板あらしを、寄せ付けないようにしてくれという署名運動が起こっています。 気持ちはとてもよく分かりますが、掲示板はだれでも書き込めちゃうのです。個人 がメールを、受信拒否するようにはいきません。だから、悪意のある書き込みを 殺到させて、乗っ取ろうと目論むこともできますが、他方で、自由に書き込んで、 自分の意見を他人に読んでもらうことも出来ます。ここで大切なのは、この自由さ です。この自由はどんな犠牲を払っても守る価値があります。

 投稿を読んで受け取ってくれる人たちが、悪意のある書き込みを、どう判断して いるでしょうか。少し引いてみれば、その人たちは、おやまた騒いでる。挑発にの ってるな。そう思っているでしょう。彼らを信じましょう。この広場の危機は、これま でにも何回かありましたが、過ぎてしまえば、悪意の攻撃の波は、引いていきまし た。ヴァーチャルなものは殺しようがないからです。